大判例

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大分地方裁判所豊後高田支部 昭和60年(ワ)17号 判決 1987年3月11日

原告 瓜生慈眼

右訴訟代理人弁護士 安部萬年

被告 山口光雄

<ほか一名>

右両名訴訟代理人弁護士 河野善一郎

主文

一  被告両名は、第三者に対し、別紙(一)記載の文書及びこれと同旨の内容の文書の配付並びに右文書と同旨の内容を告知してはならない。

二  被告両名は、原告に対し、連帯して金八〇万円及びこれに対する昭和六〇年七月一二日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

三  原告のその余の請求を棄却する。

四  訴訟費用はこれを一〇分しその七を原告の負担とし、その余を被告両名の負担とする。

五  この判決は、第二項に限り、仮に執行することができる。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  主文第一項と同旨。

2  被告両名は、原告に対し、連帯して金三〇〇万円及びこれに対する昭和六〇年七月一二日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

3  被告両名は、連名で、原告に対し、大分合同新聞紙上に別紙(二)記載の謝罪広告をせよ。

4  訴訟費用は被告両名の負担とする。

5  第2項につき仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する被告両名の答弁

1  原告の請求をいずれも棄却する。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

第二当事者の主張

一  請求原因

1  原告は、養老二年に開基された真言宗別格大本山豊後四国八十八ヶ所総本山第四十九番椿堂(以下、第四九番椿堂を「椿堂」という。)及び同第四十八番善通寺椿大堂(以下、善通寺椿大堂を「椿大堂」という。)の住職を、前者については昭和三九年四月から、後者については昭和五二年二月からそれぞれ勤めるもので、また昭和四九年五月卍教団真言宗八葉派から権大僧正に補任されている。

2  被告山口光雄(以下、「被告光雄」という。)は、農業、行商を営んできたが、昭和三八年から昭和四三年までの間椿堂の堂番を勤めた後、昭和四九年椿堂入口付近の自己所有地に自称「弘法大師八十八ヶ所総本寺椿光寺」ないし「弘法大師霊場総本寺椿光寺(椿寺)」なるものを建立して今日に至っており、被告山口弘昭(以下、「被告弘昭」という。)は被告光雄の息子である。

3  ところが、被告両名は、昭和五二年以来今日まで、右椿光寺を椿弘法大師因縁の本寺であり本尊を存置しているとして椿堂及び椿大堂が偽の由緒であるかの如き宣伝を文書等ですると共に、

(一) 「以前、女関係・詐欺行為をやり仏像等盗んで二年有余大刑に処せられ本山からは僧位も剥奪された前科者が居る…………」(別紙(一)の1)旨の、原告の名誉を毀損する文書を印刷し右文書を椿堂及び椿大堂入口において、連日の如く、参拝に訪れる信者数十ないし数百人に配布したり、右文書と同旨の内容を告知し、

(二) 昭和三六年八月一八日付大分合同新聞等の「坊さんが仏像盗む」などの見出しのついた、原告の窃盗容疑事件を報道した新聞切り抜き(別紙(一)の2記載の新聞切り抜き)やこれと前(一)項の文書とを合わせたコピーを前(一)項記載の場所において、信者らに配布したり、右各文書と同旨の内容を告知している。

被告両名の右(一)及び(二)の所為はまさに原告の名誉を毀損する不法行為であり、かつ、被告両名には今後も右所為を継続する意思あること明白である。

4  よって、原告は、被告両名に対し、右名誉毀損行為の差止並びに八年以上にわたって継続してきた右所為により原告の蒙った精神的苦痛に対する慰謝料として金三〇〇万円及びこれに対する本件訴状送達の日の翌日である昭和六〇年七月一二日から支払済みまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払と、原告の名誉回復のために別紙(二)の謝罪広告による謝罪を求める。

二  請求原因に対する被告両名の認否

1  請求原因1項の事実のうち、原告が椿堂及び椿大堂の住職で権大僧正と自称していることは認めるが、椿堂及び椿大堂が養老二年に開基されたこと及び右両寺院が真言宗別格大本山であることは否認する。

2  同2項の事実のうち、被告光雄が農業を営んでいたこと、同人が昭和三八年から昭和四三年まで椿堂の堂番を勤めたこと、昭和四九年に自己所有地に椿光寺を建立したこと及び被告弘昭が被告光雄の息子であることは認める。

3  同3項の事実のうち、被告両名が原告主張の(一)及び(二)の二種類の文書を配付したことは認めるが、配付時期及び回数は否認する。

4  同4項は争う。

三  被告両名の主張

1  原告の宗教活動歴

原告は、昭和二三年大学を卒業した後、天台宗の僧籍を得、大分県西国東郡真玉町黒土所在の天台宗無動寺の住職であった中島氏の養子に入り、同寺の住職に就任し、当時、同寺の境外仏堂であった椿堂も主宰するようになった。しかし、生来の政治好き、放蕩癖から破戒に走り、昭和三五年から昭和三六年にかけて無動寺の仏像九体(椿堂に保管していた一二神将像も含む)を売却して横領し、天念寺外一寺院から一四体の仏像を窃取する大罪を犯し、昭和三六年一二月大分地方裁判所豊後高田支部で懲役二年六月の実刑判決を受けて服役し、所属していた天台宗からも昭和三七年三月、擯斥処分(僧籍を剥奪して追放する処分)を受けた。原告は、昭和三八年四月刑期を一一か月残して仮出獄したものの、天台宗懲戒規程では、処分の減免は、「禁固以上の刑に処せられたため懲戒された者は、刑の執行を終え、二年以上を経過した後又は刑の執行を猶予され、その期間を満了したものでなければ行わない」旨定められていたため、原告は、世間にあまり知られておらず、信者も少ない卍教団(非宗教法人)に転宗を申し出て、同年八月同教団から僧籍の回復を認められ、しかも位階も一段上の権少僧正を得る一方、原告の妻の実家が主宰する椿大堂に戻るとともに、入札で椿堂の堂番に就任するなどして再び椿堂に関与するようになったが、当時、椿堂は無動寺の境外仏堂として同寺の所有に属し、日常の管理運営は地元民で構成する椿堂管理組合及びその入札によって任命される堂番が行なっていたところ、原告は、椿堂の運営をめぐって無動寺と紛争を起こし、昭和四五年七月無動寺と管理組合との間で、椿堂に安置している薬師如来外一六体の仏像を無動寺に移すこと、無動寺は椿堂を境外仏堂から除外し管理組合の所有に任せること、椿堂の敷地については無動寺と土地賃貸借契約を結ぶことなどを内容とする和解が成立し、これにより椿堂は無動寺から離れ、宗派及び主宰寺のない民間の御堂に変質してしまった。原告は、この機会をとらえて昭和四五年一二月椿堂を宗教法人化し、自らその代表役員に就任して完全に主導権を握るに至り、その結果、椿堂は、天台宗によって開かれた由緒伝統とは似て非なる卍教団という新興教団の一寺院となり下ったのであるが、このことはほとんど信者に知られていない実状にある。

2  被告両名の宗教活動歴

被告方は代々農業を営んでいたが、先祖の言い伝えによれば、現在被告両名の主宰する椿光寺の境内地(大字黒土一一三一番田)の東隅に椿の大樹があり、豊後四国八十八ヶ所の霊場の一つとして弘法大師を祭祀し、被告方が代々その堂番をしてきたが、明治四三年その御堂を現在の椿堂の所在する土地(大字黒土一三九五番)に移転したということである。右土地は、被告の先代山口藤松の所有であったが、右の時期に無動寺に寄進したため、以後椿堂は同寺の境外仏堂となり、右藤松も椿堂の堂番を勤めてきたのである。

被告光雄は昭和四〇年七月天台宗無動寺で得度して僧籍を得、昭和四六年一〇月宗教法人椿光寺を設立(本堂は昭和四九年に建立)し代表役員兼住職に就任して今日に至っており、被告弘昭も昭和四三年七月右無動寺で得度し、現在椿光寺の副住職をしている。椿光寺は、包括団体のない単立のもので、伝教、弘法両大師を主本尊とし両密教の教典に依拠して布教活動を行なっており、更に椿堂の背後地にある黒土一三八四番の山林に新四国八十八ヶ所の霊場を祭祀している。

3  被告両名の行為の正当性

(一) 配付文書の内容の真実性

被告両名の配付した文書に記載されている原告の前科が真実であることは勿論のこと、右文書中の「女関係、詐欺行為」との記載も、右犯行当時原告が愛人を囲い、また窃取等した仏像を買主を騙まして売却していることから、これまた真実であることは明白である。

(二) 前科の公表と公共性

月刊ペン事件昭和五六年四月一六日付最高裁判決は、刑法二三〇条ノ二第一項にいう「公共性」について、摘示された事実自体の内容、性質に照らして客観的に判断すべきものとしたうえ、「私人の私生活上の行状であっても、そのたずさわる社会的活動の性質及びこれを通じて社会的に及ぼす影響力の程度などのいかんによっては、その社会的活動に対する批判ないし評価の一資料として『公共ノ利害ニ関スル事実』にあたる場合がある」旨判示している。

而して、椿堂及び椿大堂は多数の信者、参拝者があって国東地方では著名な寺院であり、真玉町の仏教の里を宣伝する観光施策の上でも重視され、町発行のパンフレットに登載されているほか、町長及び教育長が椿堂の役員に就任し、寄附、看板の表示等にも公職の肩書きを付して推進者として名を連らねているもので、このような寺院の住職は、信者及び参拝者に信仰を布教し、あるいは教導する者として人格の高潔清廉が最も要求されるとともに、信者等にとっては自分を導く住職がどのような修養、経歴を積んだ人物かは重大な関心事であるし、町民にとっても町が肩入れする寺院がどのような人物によって主宰されているかは町政の推進、批判のいずれにおいても重要な一資料というべきである。

従って、かような寺院の住職の言動はたとえそれが私生活上のものであっても公共性を有することは明らかであるから、原告の前科及びこれに付随する私生活上の行状を公表することはまさに公共の利害に関することに属するというべきである。

(三) 前科の公表とその動機及び目的

原告は、住職の地位にありながら自己の信仰の対象である仏像を窃取、売却するという大罪を犯し、聖職者としては本来再び活動すること自体道義上許されないというべきであるのに、刑務所を出所後、何ら反省することなく、椿堂の由緒について、大同二年(八〇七年)弘法大師が真玉に立ち寄り椿の杖を突き差して立ち去った所に椿の大樹が生え、これが椿堂の発祥となった旨虚偽の宣伝をしているほか、椿堂は卍教団という小規模な新興教団の傘下に入っているにも拘らず、この事実を世人が知らないことを奇貨として椿堂を「西高野山椿堂」「真言宗別格大本山椿堂」などと誇張し、自分自身を「権大僧正」と称してあたかも正規の真言宗高野山派に属する寺院や同派の僧侶であるかの如く印象づけ欺瞞的な布教活動を行うとともに、被告両名の主宰する宗教の根本を攻撃した大看板を数年間にわたって掲示し、多数の参拝者に伝達してきた。かような原告の行動に対して、被告両名は、原告が椿堂及び椿大堂の住職として前記の如く偽瞞的布教活動を行っており、原告の人物、経歴が住職にふさわしくないことを公に批判すること並びに、原告からの右攻撃に対抗して原告の方こそ宗教者として根本的に許されない人物であることを批判するため原告の前科等を記載した文書を配付したものであるから、右文書の配付には、公益目的と対抗的目的とが併存しており、右対抗目的も原告の加えた批難に対する対等、相当な動機目的で社会的相当性があると評価すべきである。

(四) 以上のとおりであって、被告両名の右文書の配付は公共の利害に関する真実の事項につき、公益目的と、社会的相当性のある対抗的目的の下に為されたものであるから、全く正当な言論活動として法的に保護されるべきものである。

四  被告両名の主張に対する原告の反論

1  原告の宗教活動歴

原告は、被告両名主張の刑事事件によって懲役刑の判決を受けて服役したが、右事件及びこれにより原告が天台宗より擯斥処分を受けたことは原告の所属していた天台宗その他の宗門の僧侶はもとより真玉町周辺地域の全ての住民が知った事件でもあったが、そのうえで、真言宗において、卍教団真木応瑞大僧正管長が原告の経歴、刑事事件の全容、贖罪の状況、前後にわたる求道の精神・姿勢これら全てを判断したうえ、昭和三八年八月原告に対し僧籍の回復処分を行い、原告に僧侶として宗教活動をする資格を付与したもので、このことによって、原告は、卍教団真言宗八葉派に転宗した後、権少僧正に補任され、次いで同教団の責任役員、同八葉派及び同教団の総務部長に任命され、権大僧正に補任された後、現在は宗門六〇〇有余名の僧侶の中で管長に次ぐ地位である同教団長老職に任命されている。

他方、椿大堂は、原告の妻の実家(鴛海百市)の在家に属していたが、昭和三七年宗教法人に改組され、右実家も前記真言宗卍教団管長と同様な判断で、昭和三八年原告を椿大堂の住職に選任し、椿堂においても、原告の刑事事件や原告の全活動、行状の全てを悉知していた全檀徒、全総代が昭和四五年一二月これを宗教法人に改組し、正尾宗義少僧都を代表役員に、原告を責任役員に各選任し、その後、原告を昭和五二年二月一日代表役員に選任し、同時に住職に就任させて宗教活動を行わしめ、今日に至っているものである。

なお、椿堂及び椿大堂は、本寺を大本山高野山八葉閣とし、卍教団真言宗八葉派に所属している。

2  被告両名の行為の不当性

被告両名が虚偽であると主張する椿堂の由緒は椿堂周辺の地域における古くからの言い伝えであり、また、原告は正式に真言宗高野山派に属し権大僧正の地位を有するものであって、何ら偽瞞的布教活動など行なっていないが、もし、被告両名において、原告が住職としての適格性に欠けるとの考えを抱きこれを世間に開陳するのであれば、原告は、前記のとおり、その刑事事件を充分承知していた宗門、檀徒、総代、宗教法人役員の全員から現在の身分・地位・役職を付与されているのであるから、まず原告が所属しその擯責処分権を有する真言宗本山に対し、かかる身分・地位付与の不当性を、また原告に対し解任権を有する椿堂及び椿大堂に対し、地位・役職の選任付与の不当性をそれぞれ議論、抗議、批判し、原告に宗教活動を行わしめるべきかどうか、あるいは、その資格を付与すべきかどうか追究すべきである。しかるに、被告両名は、これらの行動を全くとることなく、既に刑の言渡の効力すら消滅した二十数年前の原告の前科等を記載した低劣かつ愚劣な文書を椿堂や椿大堂を訪れた参拝者に対し無差別に配付するなどしているものであって、これが正当な言論活動の方法を逸脱していることは明白である。

第三証拠関係《省略》

理由

一  原告が椿堂及び椿大堂の住職で権大僧正と自称していること、被告光雄がかつて農業を営んでいたこと、被告光雄が昭和三八年から昭和四三年まで椿堂の堂番を勤めていたこと、被告光雄が昭和四九年に自己所有地に椿光寺を建立したこと、被告弘昭が被告光雄の息子であること、被告両名が原告主張の二種類の文書を配付したことは、いずれも当事者間に争いがない。

二  右争いのない事実に、《証拠省略》を総合すると、次の事実が認められる。

1  大分県北部に位置する国東半島では真言宗の開祖である空海(弘法大師)への信仰が大衆化しており、その由緒は、都甲荘六郷山天念寺第一一世住職盛殿法印が宝暦十年(一七六〇年)、四国に行脚し、八八か所の各霊場を現在の大分県豊後高田市及び同県西国東郡真玉町に勧請したことに始まるといわれ、右各霊場はいつのころからか豊後四国八八か所と称せられるようになった。豊後四国八八か所は豊後高田市岩屋の天念寺を第一番の札所として札打を始め、同市内及び真玉町を巡拝して最後に天念寺をもって八八番の打止となっており、この間に八八か所の霊場が配祀されている。これら霊場の管理は地元村落や講組によってなされ、毎年旧暦三月と七月の二〇日、二一日両日は年中の大祭として各霊場に幟をたて、菓子などの食物が供えられ、この日は遠近からの参拝者で賑い、村あげての祭事として慣習化されてきた。

椿堂及び椿大堂もいずれも豊後四国八八か所の霊場の一つとして大分県西国東郡真玉町黒土に互いに隣接して所在し、椿大堂は代々原告の妻の実家(鴛海家)によって主宰されてきたが、他方、椿堂は長年その周辺の地元民(氏子)約二〇戸で構成する管理組合によって運営されていたところ、明治四三年ころ法令の改正に伴い、右管理組合と、同町所在の天台宗無動寺の住職らとの話し合いにより、椿堂を無動寺の所有(境外仏堂)とするがその運営は従前通り右管理組合によって行うこと、椿堂の儀式行事は無動寺の住職が行うこと、右地元民が入札によって椿堂堂番(任期は三年間)を決め、堂番がお賽銭、供え物などを取得するが、入札金の一割を無動寺に交付することが合意され、以後、椿堂は形の上では無動寺の境外仏堂でありながら、実際には従前通り右管理組合によって運営されていた。

2  原告は、昭和二二年三月天台宗立比叡山学院を卒業後、同年四月前記無動寺の副住職を拝命し、昭和二四年五月同寺の住職に就任し、同寺の境外仏堂たる椿堂の儀式行事をも行っていたが、原告は、大分県別府市内に愛人を囲って同女に飲食店を経営させるなど乱れた生活を送るうち、昭和三五年七月から昭和三六年七月にかけ、無動寺所有の仏像九体を横領するとともに、他の寺院から仏像一四体を窃取しこれらを自己の物として売却するなどの犯罪を犯し、昭和三六年一二月一一日大分地方裁判所豊後高田支部で業務上横領、窃盗の各罪により懲役二年六月の実刑判決に処せられて服役し、そのころ右犯罪により天台宗から僧籍を剥奪され、原告の右犯罪は当時の各新聞に大きく報道された。原告は、昭和三八年七月ころ仮出獄し、直ちに椿大堂の住職に就任したが、同寺入口付近に約三年間にわたり、従前の行動を信者に詫びた、畳一枚大の看板を立て、その非を公にした。そして、原告は、天台宗に資格回復の申出をしたところ、天台宗の内規により刑期満了後二年経過しなければ資格の回復をできない旨返答されたが、その頃椿堂の堂番をしていた被告光雄から資格のない者が僧侶の仕事を行っているなどと批判されたことなどもあって、僧籍の取得を急ぎ、同年八月ころ卍教団真言宗八葉派に転宗して僧籍を回復し、昭和三九年一月二三日椿大堂を法人化して「金剛閣寺椿大堂」(昭和四四年一二月一六日「善通寺椿大堂」に名称変更、包括団体卍教団真言宗八葉派)を設立し、同年四月二五日原告が代表役員(住職)に就任した。

その後、原告は、昭和四四年椿堂の堂番の入札に際し、被告光雄をおさえて最高価で落札し椿堂の堂番となったところ、同年ころ無動寺の住職が椿堂に存置してあった無動寺所有の仏像を引き上げたりしたため無動寺と椿堂管理組合との間で紛争が起こったが、結局、翌四五年七月ころ、無動寺と右管理組合の間で和解が成立し、椿堂を無動寺から切り離し右管理組合の所有とすることが合意されたため、原告は、同年一二月四日椿堂を法人化し「第四九番椿堂」(包括団体卍教団真言宗八葉派)を設立して堂番制を廃止し、代表役員(住職)に現真玉町長正尾力の兄正尾宗義が、責任役員(副住職)に原告がそれぞれ就任し、右正尾宗義の死亡後の昭和五二年二月三日原告が代表役員となり今日に至っている。

椿堂は、法人化された後もこれまでと同様その周辺の地元民(氏子)によって管理運営されているが、真玉町長の正尾力、同町教育長の中園国彦が椿堂の責任役員に就任するとともに、椿堂改修工事の際の寄附帳や椿堂入口付近の看板等に公職の肩書きを付して名を連ねており、また、同町発行の観光用パンフレットに椿堂の案内が登載されるなど、真玉町はその観光施策上椿堂を重要視し相当の肩入れをしている。そして、椿堂は、椿大堂とともに弘法大師ゆかりの霊場として宣伝され、大分県内のみならず県外からも一日平均数十人の、祝祭日には数百人の、年間を通じては約二〇万人もの参拝者が弘法大師の御利益等を求めて訪れているが、右両寺院の住職である原告の名声がそれほど広まっていないこともあって、参拝者のうち原告から説教を受ける者は少ない。

3  原告の所属する卍教団は、戦後設立された新興宗教団体で真言宗各派を連合したものであるが、昭和六〇年版の宗教年鑑(文化庁編)では、宗教団体(宗教法人を含む。)が寺院六一か所、布教所二八八か所、教師数六三六名、信者六五万五四〇〇名と記載されている。

原告は、右卍教団真言宗八葉派の僧籍を取得して以後、昭和四六年六月卍教団責任役員に、昭和四八年八月卍教団真言宗八葉派執行兼総務部長に、昭和四九年三月権大僧正に、昭和五五年四月卍教団長老に就任し、顧問的立場で活動している。

4  被告方は、代々農業を営んでいたが、被告光雄の父山口藤松は椿堂の堂番を長らく勤め、被告光雄も昭和三八年から昭和四三年まで堂番をし、この間、昭和四〇年無動寺で得度して僧籍を得、昭和四四年椿堂の堂番の入札に際し原告に敗れて後は、椿堂の裏山に椿山堂(単にお堂があるだけ)を造って薬師如来を祭り、同じく椿堂の裏山一帯に新四国八八ヶ所との名称で約六〇〇体の石仏を存置し、昭和四六年一〇月二一日宗教法人椿光寺を設立してその代表役員に就任するとともに、昭和四九年には、椿堂及び椿大堂と町道を挟んでその斜め向いに椿光寺の建物を建立し、その付近一帯に「国東山椿光寺 別称椿寺」「椿弘法大師元祖の寺」「豊後の国八八ヶ所総本堂」などと記載された看板を立て、副住職である息子の被告弘昭と宗教活動に従事している。被告両名の主宰する椿光寺は、包括団体のない単立の寺院で、同寺の登記簿には、その目的として「この法人は伝教弘法両大師を主本尊として両祖立教の本義に基き台東両密の教典を正依の教典その他一切の仏典を傍依の教典として台東両密の教義をひろめ儀式行事を行い信者を教化育成」することなどが記載されている。

なお、被告光雄は、包括団体のない単立本山今山大師寺より昭和四五年三月律師に、昭和五四年僧正に各補されており、被告弘昭も、昭和五〇年三月天台宗立比叡山学院を卒業後、権少僧都に補され、現在は僧少都の地位にあって大分県東国東郡国見町所在の天台宗普問寺の住職を勤めるとともに、右のとおり椿光寺の副住職を兼ねている。

5  原告は、昭和四五年ころ、椿堂の裏山にある新四国八八ヶ所の入口付近に「おしらせ」と表題し、新四国八八ヶ所が新しく造られたもので、椿堂とは全く関係がなく、『或る個人が独自に所有される物件』である旨を内容とする看板を立て、次いで、被告光雄が椿光寺の新しいお堂を建立したことに対抗し、昭和五〇年ころ、椿堂の入口付近に、椿光寺が椿堂とまぎらわしい名称を用いているが、椿光寺は単立のお堂で椿堂とは全く関係がなく、『単立のお堂とは所属する宗派もなく、又本山もなく自分一人立ちと言う事です』、『尚下のお堂の建築は四八番本堂の儀式一切をもの真似しています。』などを内容とする、縦約二メートル、横約五メートルの大きな看板を立てたが、いずれの看板も設置後数年して撤去している。

被告両名は、原告が右看板を立て椿光寺や新四国八八ヶ所を批判したことに立腹し、昭和五〇年ころから数年間、椿光寺の由緒について説明し、かつ、『最近椿大師由緒に付いて不審の宣伝が有る様ですが詳しい事は当山住職へ御申出有れば御説明申し上げます』との記載があるパンフレット(以下、「本件パンフレット1」という。)を、昭和五一年ころから昭和五五年ころまでの間、本件パンフレット1の右記載につけ加え、『謹告 左記の件について幾回となく御質問を受けるので簡単に御答え申し上げます。一、以前、女関係、詐欺行為をやり仏像等盗んで二年有余大刑に処せられ、本山からは僧位も、剥奪された僧侶が居たと聞くが、今はその者はどうなっているか、貴殿の親戚か、兄弟か、中には貴殿ではないか等々の質問に会って甚迷惑し居る次第ですが、愚職は全く其の事には無関係で有る為、天地天明に誓って明確に御答え致します。簡単乍ら右御答え申し上げます。若し不審の回答有れば勿論御申し出あれば御回答も致します。皆様正しい信仰を致しましょう。合掌』との記載があるパンフレット(以下、「本件パンフレット2」という。)を、昭和五五年ころから昭和六〇年四月ころまでの間、椿光寺の由緒に加え、『次に近年椿大師由緒に付いて全くでたらめな根拠もないある個人でつくった狂言的で観光的な宣伝が広く有るが、詳しい事は当山住職へ御申し出有れば御説明申し上げます。誠に残念です。信者皆様、迷わされず正しい信仰に精進されん事を心から祈ります』との記載のほか、本件パンフレット2の『謹告』の前記内容とほぼ同一内容の記載のあるパンフレット(以下、「本件パンフレット3」という。)を、それぞれ椿堂や椿光寺を訪れる参拝者の目につくように椿光寺のお堂の中、あるいは同寺の向いに建っている小さなお堂の中に置いたりし、次いで、昭和五六年ころから昭和六〇年七月ころまでの間、本件パンフレット3の内容のほか、昭和三六年八月一八日付大分合同新聞の「坊さんが仏像を盗む 真玉町 車を乗りつけ一四体も」との見出しのついた別紙(三)記載のような記事、同月二四日付朝日新聞の「お釈迦さまにもとんだ弟子 盗んだ仏像二一体 自分の寺の文化財も売る」との見出しのついた別紙(四)記載のような記事、同月二五日付朝日新聞の「ブローカー笠村も逮捕 盗品の仏像一四体を売る」との見出しのついた別紙(五)記載のような記事、同年九月三日付大分合同新聞の「地方だより  同門衆からつまはじき ドロボウ和尚・瓜生慈眼 才におぼれ、ついに悪へ」との見出しのついた別紙(六)記載のような記事など、原告の名前、犯罪行為等が詳細に記載された新聞記事を拡大コピーし一枚にまとめた文書(以下、「本件コピー1」という。)を、そして本件コピー1とほぼ同じ期間にわたり、前記昭和三六年八月一八日付大分合同新聞の記事及び同月二五日付朝日新聞の記事をそれぞれ拡大コピーし一枚にまとめた三種類の文書(以下「本件コピー2」という。)を、それぞれ椿光寺のお堂の中や同寺の近くにあるバス停の待合室の中などに置き、更には、同寺の前の町道(椿堂にも通じている)を通る参拝者らに無差別に配付するとともに、原告の前科の内容を参拝者らに告げ、原告の主宰する椿堂や椿大堂に参っても何の御利益もないから椿光寺に参るよう勧めたりしていた。

なお、被告両名が右のとおり配付した本件パンフレットやコピーの正確な枚数は不明であるが、本件パンフレット1は一万枚以上、本件パンフレット2及び3は合わせて二万枚以上、本件コピー1は千枚以上、本件コピー2は合わせて数百枚以上作成されていることから、相当多数の枚数がそれぞれ配付されたことが窺われる。

被告両名は、本件訴が提起された昭和六〇年六月以降は一時本件コピー1及び2などのあからさまな配付は止めていたが、昭和六一年に入ってから椿光寺が参拝者に渡す封筒の中に本件コピー1又はコピー2を忍ばせて配付している現状にある。

以上の事実が認められ(る。)《証拠判断省略》

三1  以上みてきたところによると、被告両名の配付した前記文書のうち、本件パンフレット1には原告の名誉を毀損する文言の記載はないが、本件パンフレット2及び3並びにコピー1に記載されている『謹告 左記の件について……申し上げます。一、以前、女関係、詐欺行為をやり仏像等盗んで二年有余大刑に処せられ、本山からは僧位も剥奪された前科者が居ると聞くが、今はその者はどうなっているか、……』との内容は、原告の氏名こそ掲げていないものの、原告の前記犯罪行為が当時の各新聞により大きく報道されたことに加え、右文書の内容並びに配付場所が原告が住職を勤める椿堂及び椿大堂付近であることに照らすと、遠方から椿堂あるいは椿光寺を訪れた、事情を知らない参拝者はともかくとして、長年真玉町周辺に居住している者等にとっては本件パンフレット2及び3並びにコピー1に記載されている右内容が一読して容易に原告の前科であることを推知し得るものであるから、これが原告の名誉を毀損するものと評価できるし、被告両名が原告の前科を参拝者に告げる行為は勿論のこと、本件コピー1の新聞記事抜すい引用部分及びコピー2のいずれも原告の前科を摘示公表するもので、これまた原告の名誉を毀損すること明らかである(以下、被告両名の右名誉毀損行為を「本件名誉毀損行為」という。)。

2  ところで、一般に、人の名誉は幸福追求の一権利として憲法一三条により保護されており、これを侵害された者は、そのことによって被った損害の賠償(民法七一〇条)、又は名誉回復のための処分(同法七二三条)を請求できるほか、名誉毀損行為が継続し、あるいはそれが為される虞れが存する場合にはその差止を請求しうるものであるが、他方、憲法二一条一項は表現の自由を保障しているところであって、現代社会における都市化現象と新聞、雑誌等の情報伝達技術の飛躍的な発達は個人の名誉と表現の自由との衝突を不可避なものとしている。

そこで、個人の名誉の保護と表現の自由の保障という憲法上の諸価値の調整をどのように図るべきかが問題となるが、表現の自由の保障は、民主主義社会存立の基盤をなし、憲法の保障する基本的人権の中でも最も尊重されねばならず、殊に、公共性、公益性をもった事項については、情報を提供する側に知らせる自由を保障するとともに、情報を受け取る側にも妨げられることなく知りたい情報を得る自由を保障することが、様々な情報が提供、交換されるなかで自由な討議によって多数意見が形成され政治が行なわれる民主政治において不可欠の前提要件となっているというべきである。

このような観点から、個人の名誉を毀損するような表現行為がなされても、(A)名誉毀損行為が公共の利害に関する事実(一般社会人が民主政治に参加するうえで知る必要性がある情報)にかかるものであること(B)当該行為が専ら公益を図るに出たものであること(C)摘示された事実が主要な部分において真実であるか、もしくは摘示を行った者においてそれが真実であると信じるにつき相当の理由があることの三つの要件が併存するときには、名誉毀損行為の違法性、あるいは故意過失を欠く(昭和六一年六月一一日最高裁判所大法廷判決、民集四〇巻四号八七二頁参照)と解することが、民主主義社会において個人の名誉の保護と表現の自由の保障を調整する法理として妥当なものといえよう。

そこで、以下本件名誉毀損行為が右の要件を具備するか否か判断する。

(一)  摘示事実の真実性について

前記二の認定事実によると、被告両名が口頭で第三者に告知した原告の前科の内容並びに本件パンフレット2、3及びコピー1に記載されている「一、以前、女関係、詐欺行為をやり仏像等を盗んで二年有余大刑に処せられ本山からは僧位も剥奪された前科者が居る」との内容が真実と合致しており、本件コピー1及びコピー2に抜すい引用されている新聞記事中の窃盗等の容疑事実も主要な部分において真実であることは明白である。

(二)  公共の利害に関する事実について

「『公共ノ利害ニ関スル事実』にあたるか否かは、摘示された事実自体の内容・性質に照らして客観的に判断されるべきもの」(昭和五六年四月一六日最高裁判所第一小法廷判決、刑集三五巻三号八四頁参照)であることは、被告両名の主張のとおりであり、この見地から本件を検討するに、前記二の認定のとおり、被告両名が摘示公表した事実は原告の一〇年以上前の前科及びこれに付随した私生活上の行状であるところ、犯罪行為は通常それ自体として一応公益に関係をもつものといいうるが、前科となっている犯罪事実をその刑執行終了後において摘示公表することは、その者の名誉は勿論のことプライバシーの権利をも侵害し、更生しようとする者の社会復帰をいたずらに阻害するものであり、とりわけ、既に刑の消滅した前科については、刑の消滅制度(刑法三四条ノ二)が、犯罪者の更生と更生意欲を助長するとの刑事政策的な見地から一定の要件のもとに刑の言渡しの効力を将来に向かって失効させ、これにより犯罪者に前科のない者と同様の待遇を与えることを法律上保障している趣旨に鑑みると、原則として一般社会人はこれを知ろうとすることは許されず、知る権利を有さないというべきである。

しかしながら、たとえ右のような前科の摘示公表であっても、公表された者の社会的地位・活動及び右活動を通じて社会に及ぼす影響力の程度並びに公表された前科の内容及びこれとその者の社会的地位・活動との関係などいかんによっては、一般社会人が知る必要性のある政治問題、社会問題にかかわる重要人物についてその社会的地位・活動を判断、批判するに資する情報を提供するものとして、公共の利害にかかわる場合もあり得ると解すべきである。

これを本件についてみるに、原告は昭和四六年から卍教団の役職の地位に就くとともに、昭和三九年から椿大堂の、昭和五二年から椿堂の各住職を勤めており、殊に、椿堂は大分県西国東郡周辺では著名な寺院で、真玉町長及び教育長が椿堂の責任役員に就任するなど椿堂は同町の観光施策上重要視され、椿大堂とともに弘法大師ゆかりの霊場として宣伝されていることもあって、毎年約二〇万人もの参拝者が訪れていることは前記二の認定のとおりであるから、原告において卍教団の役職としての言動、あるいは椿堂、椿大堂の住職として儀式、説教を行うなかで卍教団の信者や椿堂の参拝者等の精神生活等に影響を与えていることが推認され、従って、このような地位及び影響力を有し、町が積極的に肩入れする寺院の住職として、原告は世俗人以上に真玉町民や右信者等からの批判を甘受しなければならない立場にあることは明らかである。しかしながら、原告が宗教活動以外に社会活動を行っていることを窺わせる証拠は全くなく、これに加えて、前記二の認定の如く、原告が役職を勤める卍教団は戦後設立された新興宗教団体で傘下の寺院や信者の数などからみて必ずしも大規模なものとはいえず、椿堂、椿大堂ともいずれも一地方における寺院で、これまで地元民(氏子)によって管理運営されてきた椿堂の氏子もわずか二〇戸程度にすぎないうえ、右両寺院の参拝者のほとんどは弘法大師の御利益等を目的として訪れており、右両寺院の住職である原告の名声がそれほど広まっていないこともあって、参拝者のうち原告から説教を受ける者は少ないことに照らすと、原告がその宗教上の地位・活動によって社会一般に与える影響もさほど大きくないことが認められ、かような原告が真玉町民や椿堂の氏子、あるいは卍教団の信者のみならず、大分県内及び県外から右両寺院を訪れる単なる参拝者など一般社会人からも全人格的評価を問題とされこれを批判されてもやむを得ない立場にある宗教家であるとまではいい難く、しかも、前記二の認定のとおり、原告の前科はかつて住職をしていた際にその寺院等の仏像を横領、あるいは窃取したというもので、原告の現在の職業と密接に関連した犯罪で住職としての適格性に影響を与える事柄であるとはいえ、右前科は被告両名が本件名誉毀損行為を始めた当時においても既に刑の言渡の効力すら消滅した十数年以上(現在では二〇年以上)も前のものであるうえ、原告は前記仮出獄後椿大堂の住職を勤め始めるに当たり、約三年間にわたって右寺院入口付近に従前の行為を詫びた看板を立て自らの前科を信者等に隠すことなく宗教界に復帰し、その後の努力により現在の住職等の地位を得ていることに徴すると、原告の前科は現在の原告の社会的地位・活動を判断、批判する資料としてその価値性は乏しいと認めるべきである。

このような本件の事実関係を前提とすると、被告両名の摘示公表した原告の前科及びこれに付随する私生活上の行状は、真玉町民や椿堂の氏子、あるいは卍教団の信者はともかくとして、椿堂、椿大堂を訪れる参拝者など一般社会人において積極的に知る必要性のある事実とはいえず、従って、「公共の利害に関する事実」には該当しないと判断するのが相当である。

(三)  専ら公益を図る目的について

「専ら公益を図るに出た」とは必ずしも公益を図る以外の他の目的の介入を否定する趣旨ではなく、若干私益等の他の目的が介入していても、公表に及んだ主たる目的が公益を図ることにある事実が認定できるならば、それをもって十分である。そして公益目的の有無の判断においては、摘示事実の内容、当該事実の公表がなされた相手方の範囲、表現方法及び公表に至る経緯等を総合し、それらが公益目的に基づくというにふさわしい真摯なものであったかどうかなどの点や、更には公表した者の地位・活動及び同人と公表された者との関係等から私利私欲や私怨など隠された動機がなかったかどうかなど、全体的に評価し判定すべきものと解される。

これを本件についてみるに、被告両名は、原告が椿堂及び椿大堂の住職として偽瞞的布教活動を行っており、原告の人物、経歴が住職にふさわしくないことを公に批判すること並びに原告から被告両名の主宰する椿光寺の由緒等を攻撃されたことに対抗し原告こそ宗教家として根本的に許されない人物であることを批判するため本件名誉毀損行為に及んだ旨主張し、被告両名の各本人尋問中においても、右主張にほぼ沿う供述、即ち、(1)前科のある原告と被告光雄が間違われ迷惑したこと(2)被告両名の主宰する椿光寺や新四国八八ヶ所が原告から誹謗されたことに反撃するためであること(3)原告と被告両名との間で土管の設置をめぐって争いがあったこと(4)原告と真玉町が癒着しているのでこれを正したかったこと(5)いろいろな悪事をはたらく原告の根本的悪さを暴露したかったことが目的、動機であった旨それぞれ供述しているが、右(1)、(2)及び(3)の点はそれ自体いずれも公益目的とは認められず(尤も、右(2)の点については、まず相手方の批判ないし非難が先行し、その中に自分自身、あるいは自己の所属する機関等の名誉を侵害する事実の摘示が存し、これに対し、「自己らの正当な利益を擁護するためやむをえず他人の名誉、信用を毀損するがごとき言動をなすも、かかる行為はその他人が行った言動に対比して、その方法、内容において適当と認められる限度をこえないかぎり違法性を缺く」(昭和三八年四月一六日最高裁判所第三小法廷判決、民集一七巻三号四七六頁参照)、と解すべきところ、本件においても、たしかに、前記二の認定のとおり、昭和四五年ころ及び昭和五〇年ころからそれぞれ数年間にわたり、原告において、新四国八八ヶ所及び椿堂の各入口付近に看板を立て被告両名が主宰する椿光寺、新四国八八ヶ所が椿堂とは全く関係がなく、所属する宗派もない単立のお堂である旨宣伝したことに被告両名が立腹し、これに対抗するため本件名誉毀損行為に至ったものであるが、原告の立てた看板の内容のうち「単立」とは本来包括団体のない宗教団体を指す言葉であるのに、「所属する宗派もなく」と誤った宣伝をしている部分も存するものの、全体的には被告両名の主宰する寺院、宗教自身を一応穏当な表現で批判しているのに対し、被告両名の本件名誉毀損行為は遠まわしに、あるいは新聞記事を引用する形式をとっているとはいえ、原告の前科等を持ち出してその人格そのものを直接攻撃するに及んでいるもので、原告の批判に対する反批判としては著しく限度をこえており、違法性を欠くとは到底いえない。)、右(4)の点については、被告両名が作成、配付した文書には原告と真玉町が癒着していることやこれを批判した内容の記載は全くなく、しかも配付場所が椿堂及び椿大堂周辺に限られていることに徴すると、被告両名が右文書を配付すること等により真玉町と原告との癒着を真玉町民等に知らせ真玉町の姿勢を正そうとしたものとは到底認められず、従って、右(4)の点についての被告両名の供述は措信し難く、右(5)の点についても、たしかに、被告両名は右文書において、原告の前科等の客観的事実を何ら誇張することなくそのまま表現し、あるいは新聞記事を引用するなどして侮辱的、嘲笑的な表現は一切用いておらず、文書の外形上は客観性を保った体裁をとっており不真面目さは認められないのであるが、右文書中には過去の原告の前科等にかかわる記載しかなく現在の原告の宗教活動を批判する文言は全くないこと、被告両名はこれまで原告の所属する卍教団真言宗八葉派や椿堂の氏子に対し原告の住職としての適格性について批判、議論したことは一度もなく、原告から被告両名の主宰する椿光寺等を批判されたことを契機に昭和五一年ころから原告の前科等を公にし始め、次第にこれをエスカレートさせ、椿堂や椿光寺への参拝者等に右文書を無差別に配付しているもので、被告両名には原告の住職としての適格性について問題としこれを真摯に批判、議論しようとする姿勢が乏しいと認められ、右事情に、原告と被告両名との間で、昭和四五年ころから原告の主宰する椿堂と被告両名の主宰する椿光寺のどちらの寺院が弘法大師と関係があるか争いがあったとの従前の経緯並びに被告両名が椿堂、椿大堂への参拝者に対し原告の前科を告知する際、椿堂等を批判するとともに椿光寺への参拝を勧誘している事実をも合わせ考察すると、被告両名の意図するところは、まず第一に、右文書の配付等によって原告の社会的評価を下落させ、ひいては原告の主宰する椿堂及び椿大堂への参拝者の参拝を妨害し、もって、椿堂と弘法大師の由緒について対立している自ら主宰の椿光寺に参拝者を獲得することを目的としていたものであることを窺知するに十分であるから、たとえ、被告両名において、右(5)の点をも目的としていたとしても、到底これをもって主たる目的が公益を図ることであったとは認められない。

右に検討したところによれば、被告両名の本件名誉毀損行為は、前記(C)の要件を具備するものの、(A)及び(B)の要件のいずれも欠くものであるから、違法に原告の名誉を毀損するものというべきである。

四  以上の次第で、被告両名の本件名誉毀損行為は、違法に原告の名誉を毀損するものであるから、被告両名は原告に対し、民法七一〇条により原告に生じた損害を賠償すべき義務を負う。

そこで、損害額については、被告両名の配付した文書の内容、枚数、配付場所及び原告と被告両名との従前の経緯等を総合考慮して、原告の被った精神的苦痛を慰謝するのに被告両名が責任を負うべき金額は金八〇万円が相当であり、被告両名がいまだ原告の名誉を毀損する文書を配付していることから、今後も本件名誉毀損行為に及ぶ虞れが存すると認められる故、その行為を差止めることとするが、謝罪広告については、被告両名が摘示公表した事実は主要な部分において真実であって、謝罪広告によって原告の名誉が回復するとも認められないことなどから、右の慰謝料に加えてこれを命ずべき必要性はないと思料される。

五  よって、原告の本訴請求のうち、被告両名の名誉毀損行為の差止を求める部分並びに慰謝料金八〇万円及びこれに対する本件訴状が被告両名に送達された日の翌日であること本件記録上明らかな昭和六〇年七月一二日から支払済みまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求める部分を正当として認容し、その余の請求を失当として棄却することとし、訴訟費用につき民訴法九二条、九三条を、仮執行の宣言につき同法一九六条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 東尾龍一)

<以下省略>

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